Biography  -- 増尾好秋(ますおよしあき) の経歴 --

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プロフィールと簡単な経歴

ジャズピアニストの父を持ち、幼少の頃より音楽に親しむ。早大モダンジャズ研究会在籍中に渡辺貞夫グループの正式メンバーに抜擢されてプロ入り。一躍スター的人気を博す。1971年にニューヨークへ渡り、モダンジャズの巨匠ソニー・ロリンズのバンドに通算6年間在籍するほか、リー・コニッツ、エルビン・ジョーンズ など数々のビッグアーティストと共演し「世界のマスオ」として活躍。70年代後半から、初めて組んだ自己のバンドで次々とヒットアルバムを制作。その人気を不動のものとする。感性のままナチュラルで伸びやかに歌うギター、幅広い表現力、その音楽性は懐が深い。ジャンルを超越したそのギタースタイルは、多くの若手ジャズギタリストにも影響を与えている。自然体で飾らない人柄、人懐っこい笑顔に魅了されるファンも多い。85年よりニューヨークに本格的なレコーディングスタジオを所有し、知る人ぞ知る名プロデューサーとしても活躍。スタジオでの仕事が忙しくなり思うように演奏活動できない時期が長かったが、2008年、スタジオ閉鎖により100%ギタリストに復帰し、演奏活動を本格的に再始動。同年に設立の自主レーベル Sunshine Ave. Label から『Life is Good』、『I'm Glad There Is You』を発表している。2012年に30年ぶりの自己バンドとなるPower Spotを日本で結成。2016年には日本でMAGATAMAバンドを結成。現在もアメリカに拠点を置きながら日本でも精力的に演奏している。

詳しい経歴

1946年10月12日、東京都中野区に生まれる。戦前から日本のジャズの草分け的存在でバンドリーダーだったジャズピアニスト増尾博の長男。その家庭環境で幼少の頃より音楽に親しむ。実弟の元章もギタリストである。中学3年の終わり頃に独学でギターを始める。当初はバーニー・ケッセル、グラント・グリーン、ウェス・モンゴメリーなどを聴いていた。1965年、早稲田大学のモダンジャズ研究会に入る。初めて部室でギターを弾いてみせたとき、あまりの上手さに部室が騒然となった様子はのちのちまでの語りぐさとなる。当時のジャズ研には、1年上にチンさんこと鈴木良雄(ピアニストだったが、後にベーシストに転向)、そして同級にタモリがいた。

モダンジャズ研究会在籍中に渡辺貞夫に見いだされ、1967年12月、大学3年のときに渡辺貞夫グループのレギュラーメンバーに抜擢されるという華々しいプロ スタートを飾る。一躍スター的人気を博し、1969年にはデビュー・アルバム『バルセロナの風』を発表。渡辺貞夫グループに3年間在籍し、同グループでヨーロッパや米国への演奏旅行も体験。若くして日本ジャズシーンを引っ張る存在の一人として活躍。スイング・ジャーナル誌人気投票の日本人ギタリスト部門で1970年1位に輝く (その後日本を離れてからも1975年まで5回にわたり1位を獲得)。

1971年6月13日、ニューヨークへ渡る。日本人ミュージシャン大挙渡米の端緒となった。半年くらい滞在して日本へ帰るつもりだったが、そのままニューヨークに留まり、現在に至っている。アメリカでは中村照夫、マイケル・ブレッカー、レニー・ホワイト、エルビン・ジョーンズ(Blue Note盤『メリーゴーランド』録音に参加)、リー・コニッツ、ソニー・ロリンズ、ロイ・へインズ、ラリー・ヤングなどと共演。ジャンル的に少し変わったところでは、ソウル ボーカルユニット「アシュフォード&シンプソン」のバックバンドでも演奏。「アシュフォード&シンプソン」のメンバーとして米国のテレビに出演する際に、米国のグリーンカードが必要になりグリーンカードを取得。

1973年春にはモダンジャズの巨匠ソニー・ロリンズのバンドに入団し、当時の日本ジャズ界にとって大きな話題を呼ぶ。きっかけは、ちょっとした紹介によりソニー・ロリンズから電話でリハーサルスタジオに呼び出されてセッションしたところ気に入られ、入団の誘いを受けたのだった。実は、その少し前にチック・コリアともセッションしており、しばらくして彼のバンド リターン・トゥ・フォーエヴァー にも誘われたが、リターン・トゥ・フォーエヴァーへの誘いはロリンズ入団を決めた直後だった。このとき増尾は弱冠26歳。ロリンズのバンドにまずは3年ほど在籍(後に80年代前半にも3年間在籍)。ロリンズのアルバムに参加し、世界各地での公演や、カーネギー・ホール、リンカーン・センター、ハリウッド・ボールなどにも出演。Masuoの名が世界に知られることとなる。ヨーロッパ公演では、各地のメディアでMasuoの共演ぶりが絶賛された。

1977年、日本のキングレコードのフュージョン・レーベル Electric Bird の第1弾となるリーダー・アルバム、『セーリング・ワンダー』を、ニューヨークで録音・制作。このアルバムが1978年5月にリリースされて大ヒット。以後数年間にわたり『サンシャイン・アベニュー』、『グッド・モーニング』など、優れたフュージョン・アルバムを次々に発表し、新しいファンを獲得。自己のバンドを率いて日本でコンサート・ツアーを行い、アメリカ西海岸もツアー。ニューヨークではライブハウス「ミケルズ」や「セブンス・アベニュー・サウス」になどに出演する。

81年にはマイケル・ジャクソン全米ツアーに同行してステイシー・ラティソー(vo)のバックを務めてもいる。

自己のバンドの活動を続ける一方で、1981年末頃からは再びソニー・ロリンズのグループで3年間ほど演奏し、ロリンズのアルバム『リール・ライフ』にオリジナル曲を提供もする。

このロリンズとの共演期間の後、ライブ活動を一時休止。85年よりマンハッタンのソーホーに本格的なレコーディングスタジオ "The Studio" を所有し、そこにこもって実験的に一人でシンセサイザーなどの機器類を使ったサウンド創りを始める。当時はそのためのツールが未発達だったこともあって、長期を費やすこととなる。オーバーダブにより一人で作ったサウンドは、1989年にアルバム『Masuo』として発表。翌1990年には、岡田勉とのデュオ アルバム をリリースし、7年ぶりの日本ツアーで全国を回る。

自身のスタジオを使って、1987年頃から主にニューヨークの新進ミュージシャンをプロデュースする仕事を始める。20年余りの間に約300タイトルのアルバム制作にかかわり、知る人ぞ知る名プロデューサーとしても名を馳せる。なかでも、松任谷由美(ユーミン)を発掘したプロデューサー有賀恒夫氏と共同で立ち上げた JazzCity レーベル、および後続の JazzCity Spirit レーベルから、プロデューサーとして計40点の作品を世に出す。世界的なレコーディング・エンジニアであるデビッド・ベイカー氏と深い交流を持ち、氏のアドバイスを機材選定などスタジオの技術に取り入れていった。The Studioは、まったく宣伝しないにもかかわらず主にジャズのミュージシャンやプロデューサーの間で良く知られた存在であり、常にレコーディング予定で埋まっている状態。増尾は、スタジオでの多彩な活動を展開するうち、思っていた以上に忙しくなって自己の演奏活動ができないというジレンマに陥り、長い間抜け出せなかった。

ミュージシャン復帰宣言として 1998年12月に 『Are You Happy Now』 を日本のオーマガトキから、翌年11月には米国Sunnysideから発表してファンに健在ぶりを示し、いくぶん演奏活動も行うようになるものの、スタジオの仕事は続く。次の自身のアルバムのためレコーディングを数回に分けて行い、それを新設の自主レーベルからリリースしようと考えていた矢先に、The Studio を手放す転機が訪れる。スタジオの入っていたビルが別のオーナーの手に渡ったため、20年以上に渡り多くの利用者に愛されてきたスタジオを閉じることにしたのだった。

2008年1月末に The Studio を閉鎖。ペンシルバニア州田舎に持つ別宅の敷地にプライベート スタジオとしてKakinoki Studioを新設し、そこへスタジオ機材を移す。演奏活動を本格的に再始動する決意で、10年ぶりの新作『Life Is Good』を新設の自主レーベルSunshine Ave. Label の第1弾として2008年8月20日に発表。翌年には『I'm Glad There is You』 を発表。日本にも以前より頻繁にツアーに来るなど精力的に演奏している。

2009/9/5更新


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