さよなら The Studio
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ところで今年は僕にとって大きな方向転換をする年になります。 New York のスタジオ The Studio が1月いっぱいで終わる事になりました。2年前にスタジオのビルのオーナーが亡くなってしまい既に他の人がビルを買い取ってしまったのでこの1月で今のリースが終わると出なければならない訳なんです。この20年間、良い意味でも悪い意味でもこのスタジオが僕の仕事の中心になってしまって僕の演奏家としてのキャリアが無くなってしまいました。ここで少し僕とこのスタジオの事について書いておきたいと思います。

102 Greene Street の地下にあるこのスタジオは1980年に僕の知人だった鶴田敬君が作りました。名前は Zeami Studio。 彼はその後5年間経営しましたが、個人的事情で日本に帰る事になったので僕がその後を引き継ぐ事になり名前を変えて The Studio になりました。僕はその前の数年はミッドタウンにあるミュージックビルディングに T.M Stevens とドラムの Tony Smith と一部屋をシェアーしてミュージックルームとして使っていました。自分のバンドを持ってエレクトリックバードの一連の作品を作った後の時期です。MIDI 機材に興味を持って一人で Masuo アルバムを作っていた頃なんです。だから自然にレコーディング技術の方にも興味を持つ様になっていました。だから鶴田君(タカシ)が日本に帰ると言った時にそれなら僕がやってみようかなと思ったんです。でも柿の木(The Tree ※下の注) の伯母さんが援助してくれなかったら出来なかった事でした。。その頃の僕は世の中の事、世間の事等に全く無知で、どうやってお金を作って生活を立てて行くのかも知らない全くアホみたいな奴だったんです。僕は若い時から人一倍ラッキーな道を歩いて来たので30過ぎになってもギターを弾く事以外の仕事をした事が無かったんです。そんな僕だったからスタジオをどうやって使って行こうかとかビジネス感覚はゼロ、将来の計画等全く持っていませんでした。でも僕は又恵まれていたんですね、物事が自然に流れて行ったんです。1986 年父が亡くなり日本に行っている時に学生時代からの知人有賀恒夫君から New York で Jazz をレコーディングしたいんだけれど....と相談され結局二人でパートナーになって JazzCity Label を始める事になりました。そこからミュージシャン以外の事をやり始めたんです。世の中はレコードから CD に変わって行く頃でした。
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(※The Treeとは、現時点でCDに未収録のオリジナル曲。伯母さんちの庭に昔からある柿の木をおもって曲名にした。)

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